高田清太郎ブログ

雨樋のささやき



建築/巣舞.間知.趣舞

今朝は早くから小雨が降っている。梅雨時の小雨は田圃の稲を潤してくれるだけでなく、畑の作物にとっては命の水でもある。
いつものように散歩に出かけるのであるが、生命を育む恵みの水と思っただけで心は弾む。
カタツムリやナメクジまで道路を横断している。
ふっと目を移すと雨板張りの家屋に取り付けられた縦樋が目に留まる。
普段は隅に隠れて目立たないところで機能を発揮してくれている縦樋が、
堂々と真ん中で自分の存在を主張しているから思わずシャッターをパチッである。
軒樋で集水された雨水が縦樋を通って地面に放水している姿は、一層存在感ある物にしている。
更に目を移すとベランダから張り出すガーゴイル〔オーバーフロー装置〕から、
流れ落ちる雨水の痕跡を晴れた日にも確認できる。無いことで主張する縦樋もある。
15年前に竣工した「ゆきん子ペンギン教会」(長岡市)の屋根の集水デザインも独特である。
コーナーに集まった分だけをシャモジ型のスポット樋で受ける形は丁度、建物のイアリングといったところである。
樋はひさし部分・軒部分に平行に取り付けられる軒樋とそれらの水を集水器で集め地上に流すための縦樋とでなっている。敢えて縦樋を中途で留めておいて、下のほうに壺でもおけば雨の日には楽しい音楽を奏でる楽器に早変わりでもある。繰り返すが、樋はどちらかと言うと裏方でデザイン性を持って前面に出てくることは中々無いが、敢えて守りパーツを攻めのパーツに替えることで、意外性を生み出す好事例でもある。
バイブルの言葉を思い出した。「身体が一つであっても肢体は多くあり,また、身体の全ての肢体が多くあっても、身体は一つである。」「もし足が手ではないから身体でないとか、耳は目でないから身体ではないとか言ってもそれで身体に属さないわけではない。」「もし身体全体が目だとすれば、どこでかぐのか?」「目は手に向かってお前は要らないとは言えず、頭は足に向かってお前は要らないとも言えない。」「そうではなく、むしろ身体の内で他より弱く見える肢体がかえって必要なのである。」それぞれが夫々の役目をしている。必要なものである。
建築と言う仕事も多くの人々の頭脳・手・汗を通してつくり上げられていく。
設計スタッフ頭脳からは夢の設計図がつくられ、多くの職人さんたちの手と汗によって工事が行われる。
どの一つも割愛できないものである。
雨の朝の散歩でふっとそんな風に想った。
  
・縦樋から放水される雨水   ・真ん中で主張する縦樋 ・ ベランダにつけられたガーゴイル
  ・縦樋をなくすることで樋の存在を主張 ・ ユキンコペンギン教会
  ・シャモジ型樋は建物のイアリング

 ・でんでんむし虫カタツムリ!