高田清太郎ブログ

長岡商業高等学校創立記念講演会に参加して+北村敏雄君の長岡商工会議所副会頭就任を祝う会



エッセイ

長岡商業高等学校創立記念講演会に参加して:演者は長商先輩であり河井継之助記念館館長の稲川明雄先生である
長岡商業創立100周年記念講演:士魂商才

稲川明雄先生は私が尊敬する先輩であり、越後に関する近代史にかけては右に出る人がいない歴史学者である。

講演は聴くものにとっては“楽しいか?”“為になるか?”そのどちらかがなかったら時間の無駄だと誰かが教えてくれた。その点、稲川先生のご講演はとても為になり、とても楽しくその両方であるから、聴衆を決して裏切ることはない。4月28日は定例会議が予定されていたが、見計らって講演会に参加させていただいた。

母校:長岡商業高校は明治43年4月29日に創立した。1910年であるから今年で100年である。創立100周年を記念して10月8・9日には記念式典が開催されることになっている。その時の記念講演の講演者予定は、長商大先輩であるヨネックス会長の米山宏作氏である。話題の石川遼選手が育つ過程も含めてのご講演ということになると言うので、今から楽しみである。当日は同窓である秋山孝多摩美術大学教授製作による記念モニュメント(100年の風)も除幕・披露されることになっている。

4月29日は祝日(みどりの日)のために、例年4月28日に創立記念講演が開催されてきた。今年も全校生徒達・教職員・父兄を前に稲川節が講堂(体育館)に流れた。

昨年は秋山孝先生がお話され、その前年の一昨年は不肖私のほうで担当させていただいた。先生方と違って私の場合は話すことに不慣れで話したいことだけが多くあり、結果支離滅裂であったような記憶だけが残っている。

それもそのはず、居並ぶ学生達を前に話すとなると私の学生時代にタイムスリップして準備した建築の話がほとんど出来なく、思いつくままを語らせていただいたことを記憶している。(ここで話は私のことでは無い路線修正)
ご講演においては百戦練磨の稲川明雄先生のお話の要点は3点:
1. 長岡商業高等学校時代の想い出。
2. 士魂商才
3. 河井継之助記念館
しかし、45分と言う時間の関係で3.番目には届かなかったが話は充分であった。

稲川先生は長岡商工会議所100年史を編纂中であるという。長岡商業高等学校創立100周年と重なるから話しの絡め方もとても面白かった。

1. 昭和35年4月に入学、その年が丁度50周年であったという。委細はお忘れになられたが様々なイベントで活気付いていた当時を懐かしんでお話しされた。そしてその50年後の100周年創立記念日に、よもや自分で講演をするとは想っていなかったと切り出された。

現在は商業高校と言うと女子が多いが、当時はクラスに4~5名くらいしかいなかった。商業高校は男子学校と言う時代である。小生は昭和40年4月の入学であるから稲川先輩の5年後輩と言うことになる。(それだけに、お話の背景はほとんど変わらず、かなりの記憶の風景が重なった。)ちなみに進学クラスであった我がクラスには、2年次3年次と女子が誰もいなかった。

稲川先生の話は続く:野球部や運動部が大手を振るっていた時代である。昼休みに於ける応援の練習は一年生にとってはとても怖い時間であった。商業卒でありながら稲川先生はソロバン・簿記の両方とも3級さえ取らなかったのは自分くらいだろうと誇っておられた。人文科学が好きで歴史書を書くようになったのもそんな理由からであるという。(反対に私などは市川先生というとても気骨のある簿記のクラスであったから、一年と二年の夏までに商業簿記一級・工業簿記一級・会計学・ソロバン2級獲得は必須条件であり、クラス全員が取らなければならない。大学では建築に転向した分けだから、実際にはほとんど不要の資格のような気がしているが。とらないととても恐ろしい環境・取るまで補習も止む無しといった背景があった。)それだけに稲川先生のご自分を通された気骨さにも再度感動した次第であった。

稲川先生は卒業と同時に市役所に入る。当時は市役所の人気度は低く誰でも入れたので友人からは強く引き止められた、と。(現在の公務員人気からは計り知ることが出来ない時代でもあった)

商品は売れなければ意味がない。どんなに良い物をつくっても売れなければ駄目。お客目線が大事である。書籍もそうである。読者目線に立つことが大切である。読む方に届かなければ意味がない。

ご著書の「互尊翁:野本恭八郎」や「龍の如く:出版王・大橋佐平の生涯」は、その代表作である。読むものをたちまちの内に虜にしてしまう。河井継之助記念館館長であられるから長岡の歴史には特に造詣が深い。どんな切り口から質問してもその返答はとても流暢である。

2. 士魂商才
M34年に長岡の町が出来た。と同時に商業学校をつくる懇話会が出来た。

小林寅三郎のこめ百俵は学校をつくることであった。その原点は商業の活性化でもあった。学校をつくるのは豊かな社会づくりそのものであった。

M39年市制が誕生・その前年M38年に長岡商業会議所が設立された。そもそも商工会議所の提唱者の一人が渋沢栄一:実業界の重鎮であった。そして、その5年後のM43年に商業高校が誕生するのである。
福澤諭吉の和魂洋才(和魂漢才)と比較される士魂商才!

第一校歌に『士魂商才』なる言葉が入っている。“武士の精神と商人の知恵”の両輪が必要:渋沢栄一氏の唱えた言葉が確りと受け継がれている。

互尊翁:野本恭八郎や出版王:大橋佐平は自分は何のために生きてきたのか?自分の疑問をしっかりと出し、相手を生かすために自分を犠牲にすることも必要である。互尊独尊思想の具現化である。

自分にとって不利なことや嫌なこともしていかなくてはならない。まず、目前の学業に励んで欲しい。そして自信を持って卒業して社会に羽ばたいて欲しい。と締めくくられた。(まとめにならないまとめ方になってしまった。稲川先生には申し訳ない話しである)
あっという間の45分間であった。

* 折りしも、我等が同期・友人の北村敏雄君が今年から長岡商工会議所の副会頭に就任されることになった。4月30日には極々近しい仲間で就任祝いを開催することになった。秋山孝ポスター美術館長岡で秋山先生を交えての開催であった。(その後に様々な紙上を通し、書かれているような長岡商工会議所と市との間のごたごた等知る由もない段階での開催だったからこの会も辛うじてセーフであった)
同期が中心なり12名で祝砲(18:30に5号打ち上げを合図に)と祝杯である。
夫々が手作りの手持ちや激励の言葉を持ってきた。

私もサルギナートベール橋に士魂・商才を両岸にしてパズルを贈ることにした。集まった皆の寄せ書きも添えさせていただいた。

タイトルは長岡商工情報会議所である。商工だけでは現在では通じない。情報を入れなければグローバル世界では立ち行かないのであるから。

全国的にはサロン化している商工会議所ではあるが、こと長岡商工会議所に限っては稲川先生からも、とても実務的に働いているとの評価が下されていた。それは関係者の情熱でつくり上げて来たこれまでの歴史が意味するものであった。

農耕社会から工業化社会・商業化社会そして情報化社会へと大きな変動期もすでに通りすぎ、新たなる変動期を越えなければならない。次に見える風景を掘り起こし、つくり出して行く原動力に北村新副会頭がなってくれること期待し、我ら仲間も影ながら応援していくことだろう!

進学校でない職業高校生徒に向って、吉岡先生が声を大にしていた。「君達の目の前にはレールがない。砂煙をもうもうと立てて突っ走れ!そして、君達の後に道が出来る!」

  講堂と化した体育館             ご著書:野本恭八郎・大橋佐平

  校長先生と太刀川同窓会長に挟まれて    講演後の稲川明雄先生

   APM前で祝砲打ち上げ花火を待つ! 祝砲と共に北村敏雄君に乾杯!    APM美術館はパーティー会場!

 ”めだかの宿”で乾杯!

  
   同級生や友人の寄せ書きに:思わず、にんまり!