高田清太郎ブログ

さわり・触り・障り!独裁者の五感さわり!



エッセイ

*五感のさわり(触り・障り)
チュニジア、エジプト、リビアへと拡がるイスラム諸国の独裁政権打倒の波は、これからの世界情勢に大きな影響を与えること必至である。エジプトは市民の力の結束で独裁政治(ムバラク政権)にNOを突きつけた。40年も続いた独裁政治が終焉した。40は艱難・苦難の数であるとも言う。パワーをまとめる力はFB:フェイスブックによる情報の公開と共有であったと言う。インターネットのもつ力の凄さを垣間見た思いがする。
そして新聞紙上は飛び火した国々の今を伝えている。イラン・バーレーン・中でもリビアでは、カダフィー大佐命令の元で軍隊が無差別に市民を殺傷しているように報道している。中には、如何に命令とは言え自由を求める自国民に銃口は向けることが出来ないと思う軍人が、軍を離離脱していると言う現象も起きている。
ここで独裁者とはどのような人を言うのだろうか?正直なところ私には正確にはわかっていない。
民主主義が弁証法的に正・反・合の繰り返しをして収束していくのに対して独裁は反対を許さないのである。非常事態の時には強烈な指導者が必要とされる。独裁的であれば一方通行であるが、民主的な場合では必ず意見が交わされるのである。相互作用が働くか働かないかの違いかもしれない。会社でもワンマン社長がいる。
貴方は独裁的か民主的かと二者択一的に問われれば応えに窮するだろう。どちらの要素も持ち合わせているからである。ちょっとでもバランスを崩せば組織のトップは必ずどちらかよりになってしまっている。勿論、許容範囲の中庸ゾーンには大方は入っているのだろうが。
自分に反対する人々に銃口を向ける。何とも恐ろしいことである。反対者がいなかったらむしろ死の世界は近い!諫言してくれる人がいなかったら裸の王様である。
寄らば大樹の陰!触らぬ神に祟りなし!であるから、分かっていても権力の元ではイエスマンになっている人が何と多いことか?又歴史のなかで名将と呼ばれた人には必ず確りとビジョンと信念を持った軍師がいた。
独裁者には信念を持って諫言できる取り巻きがいないのである。
何も国家のトップだけでない。地方自治の首長も含めて言えることである。企業のトップにはもっと言えることであり、その最小単位の家庭でも排除されないことである。
かたちを変えたいじめであったり、村八分であったり、OOバイオレンスになって現れているのかもしれない。
異見を述べたり諫言する人がおる事はさることながら、又それを許容する風土があることこそ肝要である。
諫言は耳ざわりの良いものではない。正に“さわる”のである。耳にさわるから耳障り!目にさわれば、目障り!
独裁者からの更正はこの“さわる”事に耐える力をつけることである。
ここまで書いていて気がつくことがある。私達は五感を持ち合わせている。そして第六感を働かせると言う!
耳ざわり(障り)・目ざわり(障り)・舌(口)ざわり(触り)・手ざわり(触り)と言うが鼻ざわりとは聞きなれない言葉である。
しかし、鼻持ちならないという言葉はある。言語や行動が我慢できないほど不愉快であるのであるからやはり心にさわるのである。
しかし、間違いなく、このように五感を通して人の心身が育てられていくのである。心地よい言葉だけに流されていては駄目だとおもいながらも諫言を嫌うのはどうしてだろうか?
水は高きから低きに流れる!苦痛から快楽に心も流れる!
苦痛を超える快楽があるから耳や目に心地よいのである。そして心地よいものだけを身の周りに近づけていたいと思うのは人間の性!誰にも否定する事は出来ない。
マイケル・サンデル先生のハーバード大学の白熱教室は、超人気講座!「正義とは何か?これからの正義について語ろう」であった。
最初に取り上げている正義の基準をジェレミー・ベンサムの功利主義・快楽主義においている。如何に少ないエネルギーで如何に多くの効果を生むか?如何に苦痛を回避して大きな快楽を生むかが尺度である。
民主主義の成員の一つは功利主義にあるといっていいかもしれない。より多くの方が自由意志において選択するかが判断の基準!多数決原理である。より多くの人々が苦痛から快楽を選択できる仕組みである。
快楽を求めるのは独裁者も同じであるが、より多くの人々の快楽ではなく、自分だけか自分の取り巻き(自分サイド)だけの快楽を求めるために他を排除することである。
サンデル先生の講義はリバタリアン・コミュニタリアンへと続くのであるが、独裁者は功利主義の段階の否定から始まっている。
そして常に耳障りなものを排除して耳触りの良いものだけを集めるのである。耳も目も鼻も肌も手も舌も「障り」のあるものは遠ざけて「触り」の良いものだけを近くに置くのである。
さ~て、自分に当てはめてみようか?耳障りなものも確りと受け容れる許容力を養わなければならないのである。