高田清太郎ブログ

5月3日は憲法記念日



エッセイ

第5回社聴熟開催:聖徳太子の憲法17条
第一条:「和をもって貴しとなし、忤ことなきことを宗とすべし!」
再び健康な建築「生活空間に倫理を求めて」建築家:内井昭蔵先生

* 巷では9連休と言う一年で一番長い休暇を楽しんだ!?
・ 弊社は暦通りであるから4連休である。それでも現在の私にとっては十分である。
・ 子育ての頃は連休を目当てに家族旅行を楽しんだ。その時は確かに長い方が良かった。長ければ長いだけ休暇モードに加速度が加わる。そして休みの終了時には慣性力を抑えられないくらいに未練心が残ったことも事実であった。
・ 週休二日制の時代が当たり前の様に闊歩しているが、そんな心境を親世帯と話していると盆暮れにしか休暇が取れなかった時代がうその様である。時代の変化は急流なのである。
・ 4月29日が昭和の日・5月3日が憲法記念日・5月5日がこどもの日!間を埋めるように4月29日から5月4日にみどりの日が移動したのは7年前である。
・ 祝日も勝手には決めることはできない。れっきとした「国民の祝日に関する法律」に乗っ取っているのである。
・ 5月3日が憲法記念日!日本国憲法は103ヶ条からなっている。この日になると護憲・改憲論が紙上を賑わす!* 憲法記念日に社聴熟と重ねた:
・ 年に数回しか開催されない社聴熟も5回目になった。5月1日の第5回社聴熟のテーマは聖徳太子の憲法17条の第一条!について語り合おうと言うものであった。
・ かつては千円札や五千円札の肖像に!現在では一万円札に使われている聖徳太子は日本に於けるもっとも古い憲法の一つ十七条を制定したと言われている。
・ 聖徳太子は同時に7人からのお話を聞くことが出来たと言う。
・ 聖徳太子は大工さんの神様とも言われ曲尺を発明した人とも言われている。
・ 太子講と称して職人の守護神として聖徳太子を祭る講があるほどである。

* 憲法記念日に思った:もっとも法典として世界最古のものとしてはハンムラビ法典があげられる。(原点訳:ハンムラビ「法典」中田一郎訳によれば実際にはそれ以前にすでに、ウルナンム法典/リピト・イシュタル法典/エシュヌンナ法典などの断片が発見されているという。)
・ 「目には目を!歯に歯を!」で有名なハンムラビ法典は国民に真にして善なる道を歩ませようとした正しい判決!「強者が弱者を損なうことが無いために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために・・・・虐げられた者に正義を回復するために」貴重な言葉を碑に書ききした。
・ しかし、よく読み進めると階層(上から順にアヴィールム、ムシュケーヌム、そして奴隷の3つの社会階層がある)ごとでその賠償内容が変わる。「同害復讐」はあくまでも同階層内でのことである。
・ 「196条:もしアヴィールムがアヴィールム仲間の目を損なったら、彼らは彼の目を損なわなければならない。」
・ 「199条:もし彼がアヴィールムの奴隷の目を損なったら彼は彼(奴隷)の値段の半額を支払わなければならない。」ここでは目には目ではなく賠償金で支払えばいいと言う。
・ 更に「195条:もし息子が彼の父親を殴ったなら、彼らは彼の腕を切り落とさなければならない。」と親子間ではもっとも厳しい罰則である。厳しいルールである。確かに下剋上の時代を経てきた日本も分からないわけではないが、それでも大きな乖離を覚えるのは私だけであろうか?また、日本的でない戒律に思えるのは日本の自然環境からかも知れない。
・ 全282条からなるハンムラビ法典の第一条からも厳しい法律であることが伺われるので記すると「もし人が(他の)人を起訴し、彼を殺人(の罪)で告発したが、彼(の罪)を立証しなかったなら、彼を起訴した者は殺されなければならない」とある。
・ 現代の冤罪事件・冤罪事件と疑われる裁判の如何に多いことか?また、賠償金で対応する姿勢にはハンムラビ法典では如何に階層が高い人々からの起訴であることを言わんとしていることにならないだろうか?
・ いずれにせよ、一般庶民を含めた規制であり裁きである。
・ 複数の人々が集まって生活をしている。必ずトラブルが発生することは避けられない。そこにジャッジが必要である。ジャッジの基準が必要である。それがルールであり、規範であり、法律でもある。
・ 共同生活には必ずルールが存在する。勧善懲悪は公平に施行されなければならない。

* 憲法記念日に思った:昔、ソロモンと言う王様がいた、ソロモンが王位についた時に王は祈りをささげた。自分が多くの民のトラブルを正しく公正にジャッジできる能力・知恵を頂きたいと最初に祈ったと言う。
・ それに対して神様はソロモンの祈りを喜ばれたと言う。裏を返せば歴代の王さまは自分の地位・財産・健康を望めど決してソロモン王の様に第一番目の最初に人を公正に裁くための知恵を求めなかったと言うことになる。
・ 民を収める者にとって一番大切なことは公平である事!公平であることのためには多くの立場から観るに必要な知識と判断するに足る知恵が必要であった。

*閑話休題!憲法記念日に思った:
・ 元々「憲法」は国家権力を制限するものと言われている。為政者や官僚・権力者に対して規範を示し制限を加えたものである。
・ 聖徳太子の憲法17条もまさに官吏を規制するものであり時の権力者に対しての戒めであった。
・ 会社組織になぞらえれば幹部・経営陣に対する運営規制である。また、グループであればその上司に対する心構えを教えてくれている。
・ 「上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて!」である。
・ どの様なグループでもその上に立つ者の制限であると考えると分かり易くもある。
・ 社聴熟では第一条を取り上げた。皆の意見は百出であった。
・ 100分と言う中での学びなので結論は出ずじまいであった。また、結論を出すことがテーマで無かったので箇条書きで今後の課題とした。
・ 参考書は大角修著:聖徳太子の言葉:憲法17条!

原文
・ 一に曰く、
・ 和(やわらぎ)を以て貴しとなし、忤(さか)うこと無きを宗(むね)とせよ。
・ 人皆党(たむら)有り、また達(さと)る者、少なし。
・ 是(ここ)をもって或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、また隣里(りんり)に違う。
・ 然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論ずるに諧(かな)うときは、
・ すなわち事理(じり)おのずから通ず。何事か成らざらん。
口語訳
・ やわらぐことを尊く思い、むやみに角を立てることの無いように心がけなさい。
・ 人は皆、利害の一致する集団になりがちで、そうしたことにとらわれない人は少ないのです。
・ ですから、国王・君主や父に従わず、近隣の人達ともうまくいかないのです。
・ しかし、人の上に立つ者が和を重んじ、下の者も互いに親しくして話し合うなら、
・ おのずから道理にかない、何事も実現できないことはありません。

Ref:
・ 十七に曰く、
・ 夫れ事独り断ずべからず。
・ 必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。
・ 小事は是れ軽し、必ずしも衆とすべからず。
・ 唯し大事を論ずるに逮(およ)びては、若しは失あらんことを疑う。
・ 故に、衆と与に相弁ずるときは、辞すなわち理を得ん。
…物事は独断で決めてはなりません。必ず、みんなと話し合いなさい。小さいことは、必ずしも皆に
諮らなくてよいのです。唯大事なことを話し合うときは、もしかしたなら、自分の考えが間違っているかもしれないと、自分を疑うようにしなさい。そうして、みんなで話し合えば、言葉は道理にかなって、みんなが納得できるでしょう。

*皆で考えてみよう!(以下は皆で考えた断片である)
・ 和とは何か?皆と仲良しクラブを作ろうとしていることでは無さそうだ。
・ 忍耐を学ぶことである。
・ しなやかで強い心を持つことだ。その上で、よく話し合えば、人はわかりあえるものである。
・ 人みな党あり!群れたがる存在。その時代の空気に流される(山本五十六は時代の流れを食い止めようとしたが届かなかった)。モンロー主義?空気読めないkY?ポピュリズム?
・ 元々対立する概念を存在させている=個の存在!
・ 詩編133-1:見よ、兄弟が和合して共に住むことは如何に麗しく楽しいことでろうか!
・ [君子は和して同ぜず小人は同じて和せず]
君子は、争いはできるだけ避けようとするものだが、かといって意見が異なる相手に無制限に同調することはない。一方、凡人は主体性に欠けるところがあり、有力な意見にはすぐに同調するが、全体の調和などに心を配ることは少ない、という意味。
・ 上下関係:あなた方の内で上に立ちたいものは仕えるものになりなさい。
・ Love is patient!(バイブル:愛は寛容である:寛容=忍耐)
・ 対立しつつ調和を求めている!:主張すべきは主張し受け入れるべきは受け入れるべき!

* 再び健康な建築「生活空間に倫理を求めて」建築家:内井昭蔵先生
・ そもそも社聴熟の出発は建築家の内井昭蔵先生の提唱している「理想の建築」を追求することがベースにあるから、そちらの切り口を同時に求めるものである。
・ 「健康な建築」とは人のイマジネーションをかき立て、人をインスパイア―する建築の事である。画一的な建築や都市は何も生み出さない。又、自己主張の強いひとりよがりの建築も又人間性を否定することになる。
・ 病を認める社会が健康な社会と言えるのではないか?
・ 「多元的同時性」:調整は二者択一ではできない。私たちの生活も社会も都市もすべて多元多様な価値の混在であって、これらの対立する価値観を排除せず生かすことが求められる。
・ 「病」と言った対立概念よりも、「病」を含んだ、或いは「病」をも認めた大きな全体の系の在り方が「健康」と言えないだろうか?
・ 「健康な建築」とは、建築そのもののあり方、設計の方法、発注の仕方、社会のあり方、都市との関係、創造性、歴史性、といった面に着目した建築の価値基準を言うのである。
・ 今問われているのは科学によって解明してきた事実、知り得た知識をどの様に用いるかと言う「倫理の問題」なのである。
・ 建築はこの三つ(「芸術」と「学術」と「技術」)の術が一つ欠けても建築とは言えない。そして、それを支えるのが倫理観である。
・ 「構造美」=空間の質は構造と装飾によって決まる。今日の建築は構造と装飾をともに失っている。
・ 「内と外」:建築は外壁によって内と外に区分される。建築は場所を区切り安全で保護された内部空間を持つ。囲まれた内部空間は内部秩序が形成される。壁の外は外的秩序が支配する。建築は内的秩序と外的秩序の境界であると言える。
・ 「固化」「特化」そして「中間領域」:内を外をハッキリと分別する思想は自、他を対立的にとらえることで、西洋的合理主義思想の基礎と言える。一方我が国の美意識は「もの」の輪郭をはっきりとさせない心、物事を曖昧にさせることで対立的なりことを避け、両者共存させる美学を作りだした。
・ 「ファジー化」・「あいまい性」は日本固有の自然にあると言う。
・ 「間の美学」「間の意識」:物と物との間:距離感・あるいは余白:「間をもって貴しとなし?」
・ 「部分と全体」・「個と部分」「個と個」「全体と細部:デティール」「個と集合」「生態系と建築」「循環」「都市と農村」
・ 「ゆるやかな統一」:「自然発生の様な豊かなまち」:豊かで質の高い都市空間のためには、一人の有能なアーキテクトが町全体をつくるのもいいが、その範囲全体が広すぎると、全体の統一感の方が強調され、すみづらい都市空間になってしまう。

* 内井昭蔵先生の「 ゆるやかな統一!」なる響きが聖徳太子の厳しい第一条と絡んで私に迫ってくる!のはどうしてだろう?