高田清太郎ブログ

3.11大震災から丁度100日目!



エッセイ

3月11日の東日本大震災から丁度100日目にあたる6月18日に初めて現地を訪れた。
地震が発生したらすぐにボランティアチームを組んで現地に支援に出かける人々がいる。私はその事にいつも感動させられる。そして“行かない”自分に後ろめたさを覚える。
でも、“いけない自分”を素直に認める自分がいることも否めない。
テレビニュースや情報を得る限りでは一向に進まない復興状況が届く。と同時に早いうちに自分の目で見ない不安と、見てみたい欲望が混在する。
支援に優先順序があるとすれば、地震発生直後に被災者に手を伸べて直接に手当のお手伝いをしたり、行方不明者捜索隊に加わったりすることだろうと思う。そして次には復興のお手伝いである。様々な支援は形を変えて今も行われている。直接現場に行けない人々は震災後シュリンクしがちな空気を跳ね除けるべく自前の仕事に取り組んで支援金で応援することも大切である。
それにしても、この度の震災後復興活動は複雑である。想定外の大地震と大津波!そして原発問題である。早急の対応が必要なのに、次から次に難問が襲いかかり解決を遅らせている。
現場では多くの人々が命も顧みず一生懸命に対応されている。感謝である。にも拘らず復興は遅々として進まず!の様に見えるのは余りにも大きな地震であったということが出来る。
地震が来ると多くの建築物に被害が及ぶ!その度に人命をいかに守るか?建築技術の刷新が行われている。地震対応を技術でカバーしようとすればするほど、まるで新型ウィルスの様にそれより強烈な自然災害が襲って来る様に思える。
どんなに技術で対応しようと思っても大型の自然災害には無力であることも知って諦観に襲われることも否めない。
建築を生業としている人々は早晩に現地に行って空気を吸ってくることが必要である。
映像は毎日様々な角度から私たちに情報を提供してくれている。局所的な現場人よりも複眼的映像ニュースは全知全能者になったように私たちを錯覚させる。現地に行かなくっても行った以上の話をすることが出来るのであるから。
2004年10月23日中越地震では嫌と言うほど現場を見させられた。現地人であるから当然である。
2007年6月13日の中越沖地震もその続きである。
1995年1月17日阪神・淡路大震災は多くの建造物を倒壊させた。建築を志すものとしては恐怖であった。毎日の様にテレビ放映される倒壊家屋を見て、自分たちが毎日携わっている仕事は大丈夫なのだろうか?大変な脅迫概念モンスターが育ってくるのである。
100日目であるが、自分達の目で確かめる必要がある。取り敢えず宮城県の石巻と女川に足を運ぶことにした。途中で松島と仙台・塩釜によることにした。
日帰りの予定であったので朝は6:00出発、22:00に帰宅する計画であった。
交通渋滞もなかったので順調に21:30には帰宅できた。今回は私含めて三人のメンバーであった。走行距離は800キロメートル!(余談であるが、昨年替えた車が丁度1万キロをクリアーした。一年に1万キロしか乗らない車でもある。)
まず最初は東北高速道路を降りて松島から海岸沿いに北上して石巻に進路を取った。石巻は田圃の中に今でも車が置き去りである。流れきた被災物はそのまま置き去りにされている風景は100日経っても変わっていない。
ごみ収集された廃棄物は至る所で大山になっていた。自衛隊や関係者そしてボランティアの人々がマスクをしながら励んでいる姿には敬意を!
当日は曇り空であるのでそれほどでないが温度も上がってきているから匂いは相当である。車の戸を開けるとハエが入ってくる。マスクはしていても異臭はかなりのものである。
途中礼服の集団に出会う。どの顔も曇っており悲しい。後程テレビで分かったことであるが、100日目法要が禅宗僧によって執り行われたということであった。あまりにも多くの人々がお亡くなりになられた。人々の列も大変な長蛇であった。心からご冥福をお祈りするものである。
石巻合板工場現場を訪ねた。大きな工場である。流れ来たごみ処理は一応片付けられ、流れていった合板の原料になる原木は集められていたが、いずれも泥だらけであった。工場も津波で外壁は破壊されていたのはもとより柱梁も傾き撓んでしまっている。それでも数棟あるうちの一棟が再建途上であったのは、ここで再生させるよと言うサインでもあった。
石巻工場団地のすべての建物を襲った津波の爪痕は余りにも大きい。まことに残念であるが決して一朝には復興しないことを確信してしまう。
そのまま北上して女川に到着:ここは何度もテレビ映像で見たところである。リアス式海岸の被害の典型を見た思いがする。鉄筋コンクリートの建物も4階までは冠水してしまった。コンクリートの建築物が転倒している。壁が崩壊している。開口部は全て破壊されている。木造家屋の痕跡を残すのは残された基礎である。それならまだしも、基礎さえ破壊されて我が家を記憶するものが何一つない切なさを探し人の後ろ姿に覗く気はなかったが覗いてしまった。
私たちが上から覗いたのは女川病院の駐車場。私たちと同じく多くの人々が湾から襲いかかる津波を想像しながら手を合わせる人もいた。その駐車場は津波のかかった建物が5階に相当することから20m以上の高台に建てられていたことを教えてくれた。なんと言う慧眼!
それにしても、建築物の取り壊す建設機械の中で小さなブルドーザーが道路を整地して新しい道路をつくっている後景が何となくむなしさを醸し出させてしまっている。
被災したその渦の中にしか真眼を開けないことが多々である。新しい方向の選択はその直後にしかチャンスはないのである。
病院が建てられた位置は歴史の中で津波の被災した繰り返しを回避させた。
原発の方向を変えるのは今しかないのである。辛くてもきっと新しいエネルギー源は与えられるだろうから。知恵ある日本人である。是非とも孫子の後世に今の事故の再現をさせない決断を迫られている。
帰路は昼飯を食べることから!14:00を回っている。朝の6:00に用意したおにぎりを食べて以来であるから腹もすいてきた。大きなスーパーに出ていた看板に引き寄せられて止まったものの三店舗とも営業中止中であった。
車に戻って駐車場で残っていたおにぎりを一個ずつ食べての出発である。地元で昼食を食べることで貢献しようと思ったがそれが出来なかった。しかし高速インターでは喜多方ラーメンを食べて初めての貢献であった。
余りにも大きなむなしさを覚えた。人々がいない町は町ではない。津波で襲われた家々の人影はどこにもない。果たして帰ってくるのだろうか?帰ってくることが出来るのだろうか?
・・・・破壊だけで気がめいったので、折角でもある。塩釜の菅野美術館と仙台メディアテイクを覗くことにした。
菅野美術館は2006年の作である。建築家は阿部仁東北大学教授の作品である。
小さな美術館ではあるがとても感動する美術館でもある。
それから仙台メディアテイクは伊藤豊雄氏の作品で市民に開放されている建築である。
海藻の揺らぐような柱構成は時のコンペを優秀賞に導くに今も十分な迫力であった。
一階市民広場では、3.11に負けるな!シンポジウムが開催中であった。2Fは3.11市民からの相談広場である。
宮城県は大きい!100日目になると津波を受けた海岸沿い石巻と女川と内陸部の仙台・塩釜では同じ県には思えなかった。どうか悪臭も良き香りに一日も早くなることをいのるのみである。
投稿者:高田清太郎

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東日本大震災被災地視察
宮城県(松島~石巻~女川)震災後100日目

松島(日本三景の一つ)
道路も比較的きれいで、営業されている店舗もあったので、以外に被害が少なかったのではと感じた。しかし、お店の人に聞いてみると、1.5mくらいの津波が押し寄せ、冷蔵庫等は全滅だったとのこと。
また、良く見ると、階段部分に亀裂が生じており、地震の影響が現れていた。
観光地ということもあり、地元の人たちの強い復興の気持ちと努力により整備が行われ、観光客もすこしずつではあるが戻り始めていた。
 
移動途中、川沿いを走ったが、川を津波が遡った状況がみてとれた。
田んぼに残った、ゴミ・車・止まったままの電車。
しかし 少し行くと田植えがされている場所もあり、被害の範囲も斑模様である。
  
石巻(工業地帯・石巻合板)
石巻に近づくにつれ、被害が甚大で広範囲にわたる状況を目の当たりにした。
全壊となり津波で跡形も無くなった建物、形は残っているが、津波により被害を受けた建物が、一面に広がる。
 
工場地帯では、鉄くずとなってしまった、残骸の集積場やゴミの集積場の山が出来ていた。一方で、津波により散乱したであろう、丸太が回収され、工場も再建に向け、新たな鉄骨組みの工事中の建物もあった。
  
女川に向かい移動中 大きなタンクが流されて転がっていた。また、その近くにゴミの集積場があり、腐敗した異臭とハエが飛び回り、気分が悪くなりそうになる。

女川(東北電力の女川原子力発電所のあるところ、現在停止中)
女川に入ると、津波による被害が更に悲惨なものとなる。木造家屋は跡形も無く流され、
鉄骨は骨組みだけとなり、RCの建物が転倒していた。鉄骨3階建ての建物の屋上まで津波
が押し寄せた形跡があり、20m以上の津波が襲ったものと思われる。
その高台に女川町立病院があり、地面まで、津波が押し寄せた形跡があったが、被害を免れ、
避難所になっていた。

  
  

今回の視察を通じ、自然に対して、人間の無力さを痛感するともに、昔からの口伝を今一度、再認識する必要があると感じた。高台に立てた女川町立病院が被災を免れたことが、せめてもの救いであった。

番外編 (被災地視察の帰り道)

菅野美術館(阿部仁史氏)

 
エンボスのコールテン鋼によるシンプルなキューブ型の外観
内部は、スキップを形成しながら、白い鋼板が複雑に絡み合っている。
切り取られたスリットから、展示物へと誘導していきながら、下っていき、光の取り入れ方も絶妙であった。

仙台メディアテイク(伊藤豊雄氏)

  
  
すごい!構造の概念が変わる。

覚張

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『2011.6.18東日本大震災視察』レポート

松島→奥松島
震災の影響がひどいと言われていたが、休日の日本三景にしては観光客が少ないという印象の程度であった。海に点在する美しい景観を堪能し、TVで連日放送される壊滅現場の映像は頭の中で薄れ、この視察も穏やかに終わるのではと想い始めていた。
松島を離れ奥松島へ車で向かう途中に震災・津波のすごさを痛感することとなった。目に飛び込んでくる景色はどこまでも続く破壊された住宅と、そこら中に散らばっている端材のかたまりであった。木造はメチャクチャになり、コンビニなど比較的堅牢な建物は津波で流れてきたゴミがガラスを突き破り、内部をかき混ぜた痕跡が生々しく残っていた。道路は車がスムーズに走れたので、だいぶ撤去作業が進んでいることは確かだが、地震から3ヶ月経った今もこの状況と考えると本当に大きな被害をもたらしたのだと思う。
老朽化した建物が地震で壊れるときは、町のなかでもポツポツと点在する様に壊れるが津波は違う。面的な広がりで建物、道路を呑み込んで、かき混ぜてしまう。その破壊力はとてつもない。この津波にさらされたかどうかが大きな分かれ目ともなっていたようである。

  

 

石巻
石巻は奥松島に比べ工業地帯が平たく広がっているために、津波もより広い範囲に被害を与えたと感じた。石巻合板工業の周りはゴミが高く積み上げられており、その山の上でダンプが作業している姿がオモチャに見える程の高さであった。石巻合板工業ではすでに一部の工場を新築しようとしていた。津波をかぶった場所は土曜日ということもあり、人気を殆ど感じることがなかった。このまちが置いていかれたような虚無感を感じる。またそこに少しいると、昔からこの景色だったのではないかと思ってしまうほど、そこは静かに見えた(実際、耳には車や作業車の往来する音は入ってきていたが)。
集まって瓦礫を取り除く人々を車の中から見る場面があったが、被害の規模が広すぎるためかその人たちの活動すらも静かに見えた。

 

 

女川
この町は特にひどいと感じた。石巻は沿岸部が壊滅的であったが、少し内陸部に入ると建物は立っていた。しかしこの町は見渡す限りが壊滅的な状況である。

高台になった町立病院からまちを俯瞰すると、津波の威力が大きすぎて実感があまりわかない。TVでもそうだが地上のアイレベルに立つことと、上から見ることの間に大きなギャップが生まれることを感じた。

 

 

この町はこれからどうなるのだろうか。まったく予測ができない状況である。女川は石巻に比べさらに人がいなかった。いるのは我々のように視察に来たような人ばかりである。ここに住人がいたらどうだろうかとイメージする。人々はお互いに助け合い、励ましあうのではないのか。震災の中でもコミュニティーが人々の希望になりえるのではないかとも想像をしてみた。しかし、一方でこの状況のまちにいるよりも、避難所にいるほうが安全だし、生活に必要な物資も多少は整っているのでましだとは容易に想像できるが、あまりにも人がいない町に違和感、悲壮感、虚無感を感じてしまう。
この現場を見ると、人々が集まることはそれだけで希望になりえるのではないかと感じてしまった。もちろんそれだけではないが、まちに人が生き生きと暮らすリプチを思い出しさらに強く感じる。

営業で競合と構造工法のメリットを競うことが多々あるが、ここではまったく意味がない。一生懸命PRしている自分たちの技術の儚さを痛感したし、途方にも暮れた。
虚無感を感じたこの経験が、これからどこに活かされるかはまだ分からないがこれから整理していきたい。

高田 清之介