高田清太郎ブログ

この空の花:長岡花火物語大林組の撮影開始現場からⅡ



エッセイ

突然に映画撮影現場として教会が使われることになったので鍵を開けてやって下さい。私はS教会に出かけなければならいので、宜しく。と電話でS牧師から依頼が来た。
現在の長岡ルーテルキリスト教会の建築の建て替えに携わらさせて頂いたのは今から丁度20年前である。
ニックネームは「雪ん子ペンギン教会!」と命名された。雪国には雪国の教会がデザインされていいはず。雪袈裟をかぶった女の子(年齢不詳)のイメージである。
そして雪上ではよちよち歩きのペンギンをモチーフにしたのは長岡教会の歩んできたスピード感をデザインに移入したかったからである。まさに温まりにくいものは冷めにくいのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・雪ん子ペンギン教会
私に取っては初めての教会建築であった。自ずと力が入ってしまった。その後弊社ではリノベーションも含めて全6棟ほど教会と関係施設を手掛けさせて頂いた。
キリスト教会は全世界に存在している。初めての教会建築の依頼であった。デザインは普遍化されたものではなく、教会はその土地が持つ力を強力に引き出すことを暗黙の裡に命じられていたような気がしたことを思い出す。
会堂は礼拝の他に結婚式場・音楽会会場としても多く使用されてきた。そしてこの度は長岡の古里映画をつくる大林監督の作品の一コマが撮られることになった。

それにしても撮影部隊は大所帯である。機材関係・照明関係・衣装関係・の運搬車が大型車含め10台 位がやってきた。私の役目は携帯に電話がきたら鍵を開けに行き、撮影が終了したら鍵を閉めに行く作業だけである。
8月8日はとても暑い日であった。教会にはエアコンがない。セットするスタッフは誰も彼も汗だくで真剣に作業している。
大林監督の厳しい視線が行き交う。セットが完了した状態で俳優は位置に着くのだが中々カメラを回す許可が出ない。いちいちカメラから映し出される度に周辺環境整備が指摘される。
猛暑35度を超えている。エアコンがない中での撮影はスタッフにもかなりのスタミナを強いることになる。まして、セーターを着て演技する季節の設定であっただけに俳優たちには更なるエネルギーを使わせての時間である。メイク役の付き人は俳優たちの汗を拭いたり髪を直したりするのに暇がない。こちらはうちわ仰ぐ担当を見ているのに余念がない。ちょっと覗いてワンカットシーンを見て帰ろうと思うが中々時間がかかっている。ワンカット撮るのに一時間をかけているからびっくりである。
ものづくり達の真骨頂を自分たちの建築の仕事に重ね合わせてみた。よく似ている。
シナリオを描き、それに時と場所と状況に応じて演出するのである。
この場面では出演することのない髙嶋政宏さんがお話しくれた。今回のシナリオはかなり難しいが、最後になってつながっていく。とても素晴らしい作品ですよ!と記念撮影した写真をブログに載せることにもOK頂く。
場面は渡辺大さんと原田夏希さんが食事するシーンであった。
二人とも記念撮影:大さんが渡辺謙さんの息子であることをすっかり忘れていた。新潟県人である渡辺謙さんの息子大さんも父の出身が小出(現魚沼市)でもあり、親せきが長岡におられる関係から長岡花火には何度となく見に来ていますよ!と言われてハッとする。
渡辺謙さんはハリウッドスター!ラストサムライ・硫黄島からの手紙では大変魅せられた。もうじき開封されるシャンハイも必ず観たいと思っている作品である。
俳優業でもそうだ。親から子に!そして子から孫へ!継承されて、昇華されていくそのエネルギーこそ肝要なことである。戦争の歴史を後世に伝えていくことは平和の大切さを同時に伝えていくこと以外の何物でもない。

*大林監督が長岡花火物語を制作するにあたっての意中を告白された主文をインターネットから転写。
2009年夏、縁有って僕は長岡の花火を見学しました。折からの群青色の不思議な明るい空に純白の雲が浮び、この空に巨大な花火が咲く。名立たるイヴェント花火かと思っていたが、然にのみ非ず。ここには何だか深い物語が秘められた、人の思いの気配を感じて、僕は思わず、温く、涙した。そしてこの花火は「戦禍を忘れぬ」追悼の花火であると知った。人集めのイヴェントならば土・日に開催されるべき大会を毎年同じ日に行う誠実さに、長岡の人の魂を学んだ。「映像の背後にどれほどの人の願い、思いが言葉となって秘められているか」を問う「映画」の思いと、この「長岡花火」の願いが僕の中でひとつに結びついた。——「世界中の爆弾を全て、花火に替えたい!」。これは映画の骨格を成す、良き人の言葉である。更にまた、この空の花火に怯える老女の話など、戦争の痛ましさを忘れ得ぬ人間の、純なる心ではあるまいか。そしてこの悲しみを忘れぬ強い願いこそが、全世界の人びとに語りかけていく「物語」の力と美しさではないだろうか。
2010年になって「長岡花火」を映画にしようという企画が持ち上がった。その際、来年の12月、「長岡市はハワイの真珠湾で追悼の花火を打ち上げようとしている」という話を聞いた。それはかつての日本の「敗戦少年」である僕の魂を激しく揺さぶる「物語」でありました。
1945年以降の日本には「終戦」は有るが「敗戦」(の体験)がない。その「戦争を忘れよう」という姿勢によって、戦後日本の半世紀を超える「平和」が、どこか不安定で真実の姿を見せ得ないという不安要素となっている(どこか実質に欠ける、まるで「イヴェントのような平和」なんですね)。1960年代、「敗戦」の痛みを忘れ、一気に「平和日本」を迎えた日本の青年であった僕など、そのままアメリカに渡り、訪ねる先先で「ゲラウト・ヒア(出てけ)・ジャップ! 俺の倅は真珠湾でお前ら日本野郎に殺されたんだ!」と罵声を浴び、ホテルを追い出された。しかし又アメリカ人の親友も出来、「悪いのは戦争だ。戦争を憎み、人を赦し合うことでしか、平和は生まれない」と語る、片脚をパールハーバーで失った老人とも親しくなりました。「原爆」や「東京大空襲」などと共に「真珠湾を忘れない」ことこそが、この日本の平和を、更には日米両国の友情を築くことだと信じる僕など日本の「敗戦少年」は、故にこの長岡市が願う「真珠湾追悼花火」の実現に、「平和の世」を導くための、一つの「日本の奇蹟」を見る思いなのであります。8月1日の「長岡追悼花火」をプロロオグにして、「真珠湾の追悼花火」をこそエピロオグに、そして「この空」に咲く「花」の祈りの物語を主題に、この映画は「長岡古里映画」、一本の願いのファンタジー、健気な「夢」として完成されるべきでしょう。
映画を創るには「旬」があります。今こそこの「長岡花火物語」の映画の花をスクリーンたる「この空」に、大きく深く美しく咲かせるべき時ではないか。映画は小説や絵画のような「個人芸術」ではなく、ビル一棟、船一艘建設するが如き大事業であります。この「長岡花火」一本が実現するために、私たち映画製作スタッフも深い情熱を一歩一歩未来へ向かって進めて参ろうと決意して居りますので、古里のみなさま、何卒宜しくお願い申し上げます。

2010年 夏の初め。

今、月間マイスキップ編集長である渡辺千雅さん(長岡映画をつくる会委員会委員長)の音頭取りではスポンサー(出資者)を募集中である。賛同者の一人として是非ともご協力いただけるとありがたい。

日刊イトイ新聞では、長岡花火を同時中継して全世界に発信した。タカダのところも打ち上げた花火は世界に発信されたはずだ!と教えてくれたのは同級生でもある宮内商店街の甲野元会長:この日は宮内商店街での夏祭りくじ引きである。何のこと?と同級生に問い詰めると撮影のために日刊イトイ新聞のスタッフである自分の娘が長岡に来たことを話してくれた。イトイ新聞は1998年から発信されている糸井重里氏の開設である。長岡の花火は日本人の為だけでなく全世界の人々の為にあることを今更ながらに強く想った。

   雪ん子ペンギン教会の雁木入り口         撮影前の大林監督        髙嶋政宏さんの力強い握手

   スタッフが汗だくで準備中!中打ち合わせも同時進行!一コマ撮影ごとに張り詰める空気:真剣勝負!

             原田夏希さんと渡辺大さんに挟まれて記念写真。     二人にはオーラーが漂っていた。

  宮内商店街のくじ引きイベント!    それよりもぬいぐるみが気になるな~!