高田清太郎ブログ

高校二年生時の放蕩息子! Prodigal son! 社聴熟第二講  冬囲い



エッセイ

* いよいよ冬将軍を迎える季節になった。将軍様をお迎えするのであるから準備は念入りに!準備OK?
「雪囲い(ゆきがこい)とは、日本の北海道、東北地方の日本海側、北陸地方のような 豪雪地帯で、冬の間、家屋などの建物を囲う … わらなどで囲み、雪の重みを他方向に そらすような工夫を行うこと、またその囲みのことも雪囲いと呼んだり」とウィキペデアには書かれていた。
「冬囲い」ともいう。文字のまま読めば「冬を囲う」のであるから厳しい冬を囲み込み温かさを維持しようとしているのだろうか?自分を巻いているように錯覚しているだけなのかもしれない。実は自分の身の回りをまくことで冬を囲うことである。(チンプンカンプン?)

* 社聴熟第二講が開催された。
今回のテーマは「Prdigal son:プロディガルサン:放蕩息子」である。

私が高校二年の時に使用されていた英語の教科書リーダースの中に取り上げられていた物語に出会ったことについてである。
私は教科書の中に何が書かれていたかなどあまり気にしないタイプであったのであるが、この放蕩息子だけはずーっと長い間気になった箇所である。後にその箇所がバイブルの中から取り上げられたことを分かった。
そもそも「放蕩息子とは?」ドラ息子である。自分の思うままに振舞うこと、やるべきことをやらないで飲食や遊びに現を抜かすこと!
話はこうだ!
ルカによる福音書からその箇所をそのまま転写することとする:その物語を読んで皆さんがどのように感じ、どのように考えたか?それを社長が聴くのである。それがテーマである。

* 15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。
15:12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
15:14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
15:15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
15:16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
15:17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
15:18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
15:19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
15:20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
15:21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
15:22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
15:23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
15:24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
15:25 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、
15:26 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
15:27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
15:28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、
15:29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。
15:30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
15:31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。
15:32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

* 参加者スタッフ夫々から輪読してもらい。そのあとに感じたことを話してもらう。様々な見方考え方があることを体験する。
登場人物の三者の立場(お父さん・兄・弟)に立って考えてもらう。そして意見を言ってもらう。
父は「死んでいたと思ったのに生き返った=大喜び=祝宴」
弟は「放蕩を懺悔してよくぞ我慢して戻ってこれたものだ?」意地があれば帰らない・帰れない。
兄は怒っているが、本心では“いなかったのが見つかったのだから喜ぶのはお父さんと同じなのではないか?”
因果応報の価値観の世界では理不尽な御父さんの対応:むしろ不平等!兄貴の気持ちが分かる?
兄の本心は弟と同じことをしたかった?しかし、自分のモラルが許さなかった?行動は別であったが本性は同じではないか?
自分も3人の子供の親である。我儘弟を素直に受け入れることはできない。本心はそこにあっても近づけない?
何故お父さんと話す前に兄貴と話してネゴシエイションしなかったのか?それはかなり難しくても?
お父さんの姿は岸壁の母?遠くにいる内に弟が返ってくるのを見つけた。毎日待っていたのである。
財産を分けた段階で二分したのであるから使い方は自由のはず。経験したことは自分の為になったのではないか?
その昔、お父さんはそれよりも何倍も同じような経験をしたから弟を許せた?そして、たくましくなってほしいと思っている?
弟は又同じことをするのではないだろうか?もしそうだとしたら何回まで許してくれるのだろうか?
兄貴は真面目・弟は不真面目!と一刀両断には出来ない。しかし弟の生き方も魅力がある?
気付く:本心に立ち返る:罪を悔い改める:許される?
・・・・そのほかにも沢山の意見が出た。
あえてその時代の背景や情景を説明しなかったので余計に意見は自分の心を映し出すこととなった。
* もともとはイエスさんの前後の言葉を知っていると分かり易いかもしれない。
「健康な人には医者は入らない。必要なのは病人である!」
「私が来たのは義人を招くためではなく、罪びとを招くためである」
当時、律法を厳格に守っていたパリサイ人と罪びととされて蔑まされていた取税人・遊女を取り上げての喩話であった。兄貴はパリサイ人(時に偽善者呼ばれる)。弟は罪びとの象徴として話された。神を父に喩えられたのである。
この部分は現在、佳境に入った新潟日報に連載されている五木寛之氏の親鸞と重ね合わせると分かり易いかもしれない。
悪人正機説である。 「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」 という一節 が歎異抄に出ている。
話を戻して、
社聴熟で発表された意見に自分と重ね合わせてもらって自分では考えていなかった他者の発言にどの位共感したか?質問は続く!そして答えは:ほとんどが共感したと手を上げる。
世の中には様々な尺度があるが、分かり易い尺度・わかりにくい尺度・異星人の様な尺度・尺度だとさえ分からない尺度の存在とさまざまである。
普段は建築行為を通して共通のグループ活動・共同作業をしているのである。一丸となって創作作業を進めている様であるが実は様々なことを思案しながら参加していることを確認するのである。
グループは全員同じことを考えている様であるが、実はそうではない。むしろ、全く違ったことを考えているのである。その違いを確認して更に昇華させることが出来ると作品作りがなお一段とスキルアップすることになる。
思考の違いは何故だろう?育った環境が違い、観てきた風景が違うからである。ビックリするくらいに感じ方は百花繚乱である。
ここでの訓練の目的はどうしたらチームワークを強力にすることが出来るかの入り口である。
私は聴く立場にいる。そして出てきた意見をさらに質問しコラボさせていくのである。
テーマが普段考えたことのないプロディガルサンでは価値観の違いは大きく離れてくる。相手にとって当たり前のことが自分には全然違っているのである。
勿論、この訓練テーマは毎日仕事の中に出てくる具体的な話題でもいいのであるが、情景が決まってしまって答えが見え隠れしてすぐにでも出てきそうである。
しかし、課題が日常とは違うことであるから一気にその人の考えている根っこの部分までさかのぼって出てくるのである。
目に見える花の違いは実は目に見えないこの根っこの部分の差であるからだ。
そして、その差をお互いを共有することが出来るようになってくれることを望むのである。相手の目線を知り、敬意を表することが出来るようになってくれればもっと良い。
チームワークは相手を尊敬できるところから出発することで実を結ぶのである。
種が違えば花の形は変わってくる。想いが違えば形が違ってくる。
様々な手と様々な想いが重なり合って、建築主様の個性を大切にしながら同一のキャンバスの上に作品を作ることが私たちの仕事でもある。
クライアントも意見百出の個性をお持ちである。そのことを確りと理解することが私たちの仕事の初めである。
さて次のテーマを考えて次回二月一日を待ち遠しとしたい。

                 
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