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「わしはこんなところに来とうなかった!」(自分の言葉で話せ)

2009.10.14

1410月第一土曜日は醸造の町:摂田屋が市で賑わう。わが町:摂田屋はもともと天領の地であった。直轄地だっただけに税制の面でも待遇がしかれ、旧三国街道沿いには醸造の町が発達してきた。歴史の在る町でもある。今年の6月27日(土)に長岡造形大学の平山育男教授による、テーマは「摂田屋文化財建築の魅力:蔵と倉」と題して講演会が開催された。江戸時代から現代まで残っている倉・蔵の数々が紹介された。しかし、いずこも同じく灯台下暗しでそこで生活している人々にとっては歴史ではなく生活そのもの・正にそのままである。むしろ、特筆に価しないのが本物の歴史でもあるのだろう。
この地に4年前から開催された祭りの名前は「摂田屋おっここ祭り」である。おっここは“おっここ:ままま”と驚いた時の感嘆詞の方言である。10:00~15:00のタッタ5時間に全国各地からおいでのお客様は1万人を超えるからその時間密度たるや大したものである。光福寺から出る戊辰戦争の時の出陣隊(河井継之助隊・山本帯刀隊・三島億二郎隊)は一部がおっここ市に経由して華を添えてくれる。午後に開催される長岡大手通りの米百俵祭り〔小林寅三郎〕と合流する。光福寺は私も通った幼稚園でありここが河井継之助の本陣であったとは司馬遼太郎の峠を読むかなり後年まで知らなかった。
又、今年の新潟県は天地人で賑わっている。河井継之助記念館館長の稲川明雄先生の名調子は今年の6月14日〔日〕「光福寺と直江兼続」と言う〔稲川先生からは無理した?〕テーマでこの光福寺にて開講された。流暢な稲川節は益々参加者を大いに魅了した。天地人の主役である直江兼続の子役「与六」で登場した加藤清史郎君の演技は多くの人に感動を与えてくれた。その与六こと清史郎君がおっここ市にやってくることになったから市も益々元気付く。10歳の景勝〔喜平次:上杉謙信の後継者〕の家臣となるために親元を離れて雲洞庵で修行する身になった与六は5歳であった。上杉謙信と面接する段で、最初の挨拶で言葉が続かないのは人の言葉を鵜呑みにしたからだと住職である北高全祝から叱責され、誠の己の言葉で語るように言われる。そして発した自分の言葉が「ワシはこんなところに来とうはなかった」と!言う名文句。それに対する上杉謙信公の一言は「気に入った」である。流石に与六君でも摂田屋に来てはこの言葉は使えない。代わりの言葉は「わしは前から摂田屋に来たかったのじゃ!」勿論、観客の反応は大拍手の渦で答えた。与六効果で開催時間より30分前から賑わい出展品は飛ぶように売れる。又、午前中は雨にもかかわらず人の出は昨年を上回り大層のものであった。地元の味噌・醤油・お酒を販売したり地元の商店〔旭屋のパン・恩田さんのハーブジャム星六さんの3年味噌など等〕そして地元農業高校の生徒は農作物の販売、商業高校の生徒達は商業実践として販売に大声を掛けたりで大賑わいであった。
我が社も出展3年目になるが恒例の木細工・組み立てベンチ・カレー販売で参加している。こちらも、かなりの早い時期から販売に拍車が掛かる。正に越後田圃の稲刈りの終盤季でもあり新米収穫の感謝市〔いち〕祭りでもある。

  
光福寺にて稲川節は聴衆を魅了する 倉と蔵の違いに熱弁ふるう平山教授 光福寺は河井継之助の本陣(2007)
  
ガトリング砲が火を噴く(2007) 清史郎君は自分の言葉で摂田屋に来たかった! 山になって集まった聴衆
  
様々な店が並ぶ 当社コーナー リプチショップメニュー
  
木工細工は飛ぶよう?に売れた! タカモクは組み立てベンチとリサイクル材 カレーショップは花田シェフ 
 
この美味しさでこの安さ 三国街道の入り口は麹の匂いで一杯

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