高田清太郎ブログ

空から魚が降ってきた!記憶の証明



エッセイ

幼き日の記憶に重ね合わせて!
いよいよ梅雨季に入った。夜来からの雨で川は豪流と化している。恐ろしいくらいの泥流となり、目をジーッと見据えているとその勢いに飲みこまれそうな錯覚に陥る。この時期の雨は、越後路には必要なのだ。
幼き日には雨上がりの後が、楽しかった。梅雨時の雨の後には、決まって道のここかしこに水溜まりが出来ている。
そして、その水溜りに小さな魚が泳いでいるのだ。めだかの赤ちゃんでは無かったかと記憶している。
ともかく小さく、そして可愛いいのだ。豪雨の後だけに心温まる風景であった。
それから長い間、何の疑問も持たずに“魚は空から降ってくる”と思った。
やがて、年を重ねて水溜りを見る目が変わった。どしゃ降りの最中にたまたま外で遊んでいたら、
田圃の用水が溢れ出ていたのだ。
小学校の低学年は、学校への近道を覚えた年でもある。登校はいつも時間ぎりぎり。
近道は田圃の畦道と小さな農道、昨夜からの雨はまだ上がっていない。時間が無い.一目散に走り出す。
アッ、道が無い。田圃も畦道も農道も皆水で埋まってしまった。
はだしになって足めくりして、短靴を片手に持って、背伸びしながらようやく向こうの道に到達する。
そこで一息!そして学校めがけて走り出す。
それにしても雨上がりの溢れかえった水は、なんと綺麗な事だったろう。
その水が肌に触れる気持ち良さと感動は、その後にもそんなに多く経験できるものでは無かった。
しかしショックだったのは、帰り道である。朝の水は引け、農道のあちこちに水溜りが出来ている。
なんと魚が泳いでいるでは無いか?
アッ!再びに気づき。そうか“魚は空から降ってきたのではない。”大雨で溢れかえっただけだったのか。
発見には喜びが伴うが、この時だけは発見したくなかった出来事でもあった。
更に時を重ねて、何気なくTVニュースを見ていると、アメリカの竜巻は家をも車をも空中高く舞い上げてしまい、
多くの犠牲を出してしまった。…・・と。その時、牛が民家の近くに空から降ってきた。とも報道している。
竜巻に巻き上げられた牛が飛んできたのだと。私は再びあの水溜りが気にかかった。
やっぱり“魚は空からきっと降ってきたのだと。”2001年7月12日から始めた朝の散歩もあと一ヶ月で満8年になる。
それまでは愛犬チロとの散歩だったので、寄り道だらけで思うようには私を歩かせてくれなった。
雨の日は散歩をやめたくなったり、サボタージュしたくなるが、この時期の大雨〔勿論洪水はごめんであるが〕の後は何故か心が踊るのだ。何時の間にか足は田圃道。大きな川は渦巻く泥流だったが、畦道は何故か水がすんでいる。
私は水溜りに目を凝らすが魚らしき姿を見つける事は出来なかった。
(心の中の水溜りには今も空から降ってきた魚が泳いでいることには変わりない。)
魚の代わりにあめんぼう達がスケートに励んでいる。
・・・・この時期に空からおたまじゃくしが降ってきた・続いて魚が降ってきた。の報道ニュースににんまり!
懐かしき心のバイブレーション!

   用水もたっぷりの水量   蛙の平泳ぎ たまり水