高田清太郎ブログ

人は命を懸けて巣舞をつくる。



エッセイ

今回は、私の高校生時代の同級生の竹内清志君〔長岡商業高等学校前校長〕のお話をさせていただく。
今年の6月4日が彼の命日となった。6月7日が葬儀であった。あれから3ヶ月半ちょっとであるが、彼岸も済んだことなのでご遺族のご許可を頂きここで少々報告させていただくことにする。
と言うのも、9月24日早朝の夢枕に同級生数人と一緒にいる竹内君が出て来たからである。彼の顔、姿は闘病生活で苦しんでいた当時とは違っていて、最初は見間違うほどにとても健康的で夢の中では生前決して見ることが出来なかった程のすっきりスタイルであった。
彼は闘病生活の最中に住宅の建て替え計画を持っていた。病気が発見された時は余命数ヶ月と言われていたが、その後の養生もあり1年以上は延命できる状態・体調であった。日本蕎麦が身体には良いと言うので時々友人を誘って昼食を一緒にしたのであるが、亡くなる一週間程前には、突然会社にやってきて、小千谷のカレーうどんを食いに行こうと誘いを受けた。
私は行ったことがないので言われるままに運転手を勤めた。「ここのカレーうどんは美味いんさ!」と目をきらきら光らせて話してくれた。何でも、商業高校の学校案内をこの地域でしている時に父兄から相談を掛けられ、その蕎麦屋さんで食べたカレーうどんが絶品だったとか。その後、機会があるごとに人を連れて何回かお邪魔した店だという。
その日、誘われた私は何時もの様に、蕎麦は良いが、うどんは良いとは聞いていないがと言うと、「大丈夫」と即返答。カレーは刺激物だからもっとよくないのでは?と再質問すると、やはり「大丈夫」それでも心配な私は注文直前でカレー蕎麦にするように忠告した。彼は同調してカレー蕎麦に付き合ったが、食べている最中と帰りの車の中で、「やはりカレーうどんが良かったのになー!」と遠くを見ていた。
後にそのシーンを思い出すと、大変心残りのことをしてしまった。
それが竹内君と一緒にする昼食の最期となった。申し訳ないことをしてしまった。反省と後悔しきりでもあった。
話しを戻そう。カレー蕎麦を食べに行ったその日は一週間後の上棟式の話をしていたのである。上棟式は6月2日と決めていたからである。
ところが、数日後、上棟の準備の話をするために電話すると、ご家族から入院したという。早速お見舞いに出かけた。中央病院の5F病室からは母校が良く見える。〔入院は何時も母校が見える部屋に心遣いしてもらっている。と!入院していても元気な時?は、この部屋から学校に電話して、あれこれ指図しているのだと得意満面でもあった。〕
はたして、数日前とは打って変わってベッドで時々苦しそうであった。
2日後に迫った上棟式の話をすると、今までと様子が違って、力が出なくてどうも出席できそうに無いという。意識は確りしていたので様態が戻ったら現場に顔を出せばいいさ!と言ってから次のお見舞い者に席を譲って病院を後にした。
正直な感想として、今までに無い状況であり、私は、余り良くないなと思った。
話の中では上棟式に迎えに来る時間を相談したが、「出席できないかも?」「遠慮するかもしれない」と話しに乗ってこなかった。
その代わりに、何時もの様に「家を確りとつくって家族に渡して欲しい」と何度も催促するのである。「大丈夫、安心して良いよ。それよりもゆっくり休め。」「自分がつくらなかったら家族は誰もつくらないから」と命を懸けての巣舞づくりであった。
そして、「希望を持つと長生きできるものだな!余命数ヶ月が1年以上長生きさせてもらったよ!」とポツリ。
上棟日に彼は出席できなかった。その2日後に他界した。
そして彼が遺言して言った住まいがいよいよ完成した。お引渡式が9月17日に行われた。竹内家の引越しは家族の体調を見ながら徐々にやると言うことで決まった。
前述のように夢枕に出たのであるから9月24日は竹内家ご家族にとっては新居引越しで大変お疲れとは推察しながらの強引の訪問であった。夢でも見なければ後日でも良かったのだが、ちょっとの時間を頂きお参りさせていただくことができ、気は落ち着くところに落ち着いた。
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まだ竹内君が発病前の健康な時の話しである。竹内君は自分が校長として母校に帰って来れたことを「自分は運がいい!」と大層喜んで就任挨拶で同級生や倶楽部仲間をこまめに周っていた。
そして、何よりも自分の校長の代で母校長商の創立100周年事業の準備をし無ければならない使命感で燃えていた。そのためには自分の校長在籍中だけでも良いから私に是非とも同窓会の役員になってほしいと。ついては理事になってもらいたい。しかし、私にとってはこの手の仕事は苦手である。仕事が忙しいからを言い分けにして同窓会のお手伝いは何もしていなかったのが現状であった。
断る私に何度も頼み込まれて、ついには承諾することになってしまった。皮肉にも、結果として最も自分に不向きな役を受けてしまったことが竹内君と卒業以来の親交を深める再出発の始まりであった。
そんなわけで、100周年記念事業の役割は記念モニュメントの製作委員会になった。丁度記念モニュメントの依頼が同窓後輩になる秋山孝多摩美術大学教授であると聞いたから、余計にすんなりと参加できたのも嬉しい限りである。昨年の秋山孝ポスター美術館長岡の開館とあいまってして間もないことだった時期でもある。こちらの方もサポーターズクラブ会長を拝命していたので、秋山先生とはモニュメントの製作構想から話し合いに入ることが出来た次第である。
この時期には竹内君は校長を辞していたが、構想から、実際にできるモニュメント製作進捗報告すると、とても目を光らせて聞き入ってくれていた。
しかし、秋山先生の創りたいデザインが構造的にはかなり高度の技術が必要とされていた。まもなく、私の手には負えないことが分かった。
そこでモニュメントを実際に製作するための構造を私の恩師である構造デザイナー:斉藤公男日本大学名誉教授に依頼することになった。斉藤先生と秋山先生とはアーキニアリング展(AND展:私のブログにリンク)でポスター製作でコラボ済みであったから、こちらも話が早かった。
通夜式の執り行われた6月6日の式場は満杯であり、ロビーまで溢れていた。
友人から式場に入れなかった話を聞いて竹内君の人望を再確認した次第である。
葬儀式は翌7日:式後、斎場に行く途中に母校長岡商業高校に霊柩車は立ち寄った。入り口ロータリーを一周したのである。先生と生徒達が一斉に敬礼である。感動のシーンであった。後に、N教頭先生の取り計らいだと聞いた。
葬儀式後に100周年記念モニュメントの打合せ会が、日本大学理工学部建築学科のある御茶ノ水で予定されていた。会には遅れたがお斎の席を途中で退室して打合せに出かけた。
と言うのも、そもそも記念モニュメントの製作を私に仕掛けたのも竹内君の仕掛けであったからである。その仕事を成就しなければならないからであった。
今年の長岡祭りには竹内校長先生を偲んで教え子たち有志による花火が打ち上げられた。感動のアナウンスであった。
100周年事業は引き継がれている。モニュメントのテーマは「100年の風」である。
千の風ならぬ:百年の風は、きっと、君に吹き渡っていくことだろう。

*・・・・・丁度葬儀の行われた6月7日の「内村鑑三先生による一日一生」には、次のような言葉が添えられていた。私には目に見えない手を覚える。
新約聖書のペテロによる第一の手紙4章1節~2節であった。
死は犠牲である、同時にまた贖罪(しょくざい)である。何人といえどもおのれ一人のため生き、またおのれ一人のために死する者はない。人は死して幾分か世の罪を贖(あがな)い、その犠牲となりて神の祭壇の上に献げらるるのである。これ実に感謝すべきことである。死の苦痛は決して無益の苦痛ではない。これによりておのれの罪が洗わるるのみならず、また世の罪が幾分なりとも除かるるのである。しかして言うまでも無く,死の贖罪力は死者の品性如何によりて増減するのである。義(ただ)しき者の死は多くの罪を贖い、悪しき者の死は自己の罪のほか贖うところははなはだわずかである。人は聖(きよ)くなれば聖くなるだけ、その死を持ってこの世の罪を贖うことが出来るのである。或いは家の罪を、或いは社会の罪を、或いは国の罪を、或いは世界の罪を、人は彼の品位如何によりて担(にな)いかつ贖うことができるのである。死はじつに人がこの世においてなすをうる最大事業である。

   その日の夕陽に100年の風が!   完成した竹内様邸正面外観    傾斜天上の和式リビング

  ”百年の風”モニュメントの仮組みが日大理工学部建築課教室にて行われた