高田清太郎ブログ

高田建築事務所と愉快な仲間たち! 愉快な仲間たちによって織りなされてきた高田建築事務所 新潟営業所開設20周年: Re project 30=Remember+Restart



エッセイ

* 8月3日の長岡花火打ち上げに参加して二年が過ぎた。今年は三年目である。ほぼ打ち上げ開始に迷いはない!準備も着々と進んでいる?
ベスビアス超大型スターマインである!打ち上げスポンサーは“高田建築事務所と愉快な仲間たち”である。高田建築事務所には楽しい愉快な仲間たちが沢山集まってくる。今年はどのようなコンセプトで打ち上げられるか皆で考える楽しさは何物にも替え難い。
夜空に轟く大音響とともに鮮やかな色彩で飾られるドラマは夏のどんな風物詩よりも感動的であるからである。
高田建築事務所と愉快な仲間とは誰ですか?と聞かれることがある。
愉快な仲間の第一人者は何と言っても個性あられる建築主の皆様である。弊社では地縁・血縁に因んで建築の築を取って築縁会を作っている。お客様を“築縁様”(ちくえんさま)と呼ばせて頂いている。皆様はご自分やご家族の個性とこだわりをとても大切にされている皆様であるからだ。
豊かな人間性・個性ある巣舞づくり!は弊社の経営理念でもある。ここで言う個性は築縁様の個性であることは言うまでもない!
(こちらの愉快な仲間との連携は長岡では2月の第一土曜・日曜日に開催される築縁会である。新潟の築縁会は七月である。こちらは後日書かせて頂くとして・・・・)
そして、愉快な仲間の第二人者は木族の会の皆様である。協力業者さんを“木族の会”と呼んでいる。貴族の会ではない。ナイトではナイと!力説しきりである。
元々タカモク(旧高田材木店)と言う土壌から生まれた高田建築事務所であるから木の族である。
新年を迎えて年中行事の第一番に開催されるのが会社スタッフの年頭会である。続いて木族の会の皆様との新年会が長岡・新潟営業所で日にち・会場を変えて開催さる。
長岡は1月14日に!新潟営業所は1月18日に開催終了した。
新年会は二部仕立て!私からは一年間の会社の方針とスタッフからは自部門の年間目標の発表である。そして木族の会の役員さんからの発表である。約3時間後に漸く第一部が終了する。そして、第二部の宴席に入る。
宴席に入る前に記念写真を撮ったりもしながら会を盛り上げていくのである。

一昨年はタカモク60周年・昨年は高田建築事務所35周年。そして今年は新潟営業所開設20周年である。記念イベントの準備も漸く始動し始めた。
1992年6月1日が開設日である。今年の6月9日(土)に20周年記念を計画中である。それの纏わる一連のイベントを開始したいと思っている。その節には是非ともお集まりいただきたい。
20周年の後は30周年に新たに向かう:Re Startである。20周年を振り返り:Rememberと正にRe project 30!である。
建築における設計から建設の完成まで多くの人々の手を借りなくてはならない。
建築主様の夢多き想いを基軸に設計スタッフにキャド・インテリアコーディネーター・工務・現場職人さん・協力業者さん達が舞うのである。
建築現場はそれらの想いが描かれて行く大キャンバスである。画家は様々な職人たちでもある。人と言う職人の手も借りるが同時に様々な道具たちの力にも頼らなければならない!
第三人者の愉快な仲間たちは、スタッフとそんな道具機械たちも含めて呼ばせてもらっている総称でもある。
愉快な仲間が機械(きかい)とは正に奇怪(きかい)な話でもあるが。

* 本日、登場してくれる愉快な仲間たちは人間ではなく、私たちを助けてくれる機械たちである。
弊社は建築事務所であり建築の設計から施工部門まで携わっている。繰り返しになるが高田建築事務所の前身はおやじが興した会社であり、その業種は材木店であった。
親父が材木店を昭和24年に開設してから長い間、山から木を伐り出して製材をする。それを大工さんや工務店さんに販売していたのである。開設当初は原木を製材所に運んで製材してもらっていたのである。その後自社で製材機械を持つようになった。現在の工場の周りは住宅地であるが、開設当初は周りは田圃であった。

  
山から木を伐り出す!冬には馬にそりを曳かせた!昭和30年代の高田材木店風景 周りは田圃 土場は原木満載

つまり、工場の土間は原木の山であった。原木丸太を注文書に従い必要な寸法に製材するのである。工場は製材機械のバンド帯鋸や丸鋸が設置されていた。
その後、高度成長が続く。モノの価格が高かった時代から人件費が高くなった時代の到来である。山から伐りだす材木は人件費が高騰し、結果として国内産から輸入材にシフトする時代となった。更に、人件費高騰に更なる拍車がかかり輸入品は原木としてではなく製材品として平角材が入ってくるようになった。もはや時代の流れを変えることが出来ない事であった。結果として林業は衰退して山が荒れ果てる結果となった。(この件については後日談として)
原木を製材する時代が終焉したのである。製材加工業からプレカット加工業への時代の幕開けである。機械も製材機械からプレカット加工機の導入に切り替える決断を迫られた。それまでは、大工さんが弊社の工場に来て墨付けをして加工は手加工であった。一軒を加工するのに一カ月近くもかかるから加工工場倉庫が4戸だった時代には生産性は月四棟であった。勿論それ以上の加工は大工さんの倉庫に運搬である。雪国の横架材は耐雪上大断面部材の材料である。持ち運びには大変苦労した。私も高校時代から運搬の手伝いをさせられたが横架材を持ち運ぶ仕事が一番つらかった。腰に負担がかかり今の腰痛の原因にもなっているのかもしれない程であった。
建築棟数は伸びていた時代であった。従前のままでは加工棟数が限られる。プレカット機械の導入決断には再三迫られた。しかし、その当時、長岡市内では導入されている工場はなかった。導入に反対する大工さん達の暗黙のパワーも避けることが出来なかった。一緒の目線で市外のプレカット工場視察に大工さん達と勉強に出かけた。
今まで、自分たちでやっていた手加工がプレカット機械によってどんどんこなされていく風景を見て今度は大工さんからのブーイングである。自分たちの仕事がなくなると言って反対し出したのである。
そこで大工さん達からの仕事を取り上げるのではなく、飽く迄も建築棟数を上げるための手段であることをご理解願うこととなった。その方策としてプレカット機械を無料でお貸しすることにしたのである。条件は現在の仕事を30%~50%スピードアップしてくれることである。
しかし、半自動のプレカット機械を使いこなすには容易ではない。一回は機械操作を習って加工したものの現場を完成させて帰ってくると教えてもらって覚えた操作を忘れてしまっている。何度も指導しても却って能率が上がらない。
ついに、大工さん達からも機械操作する専属の大工さんを置いた方がいいのではと、推薦された職人さんが専属になって今日に形が出来てきた。当初反対された機械導入を逆催促された格好になってしまった。
そして今日のような専属プレカット職人と連携が成り立ったのである。その後全自動の機械になったのである。1988年に導入であるから、その年齢も今年で24歳になる。
本日はその機械君たちの風景をご紹介したい。間違いなく高田建築事務所のパワーになってくれたのである。愉快な仲間たちである。

  
現在のプレカット工場  朝の朝礼は体操と「職場の教養」を輪読するところから始まる!  
曳きヌカを更に細かくする粉塵機!    時々工場内に野鳥が監視にやってくる!
 
実際に加工中の風景

  
蟻仕口加工機械              自動に材料をセレクトして加工に入る!
  
鎌仕口機械
   蟻加工場と鎌仕口加工機の全景を見渡す。
  
羽柄材加工機械

 
バインニッヒ製モルドウ(造作加工機)      パネルソウ

*みんなみんな愉快な仲間たちであり作り出す品質は上等だ!