高田清太郎ブログ

母の日!母の箴言!母の葬儀!天に召された母!



エッセイ

すまいは巣舞
巣は形・舞は想い
想いを形に
巣舞るフォー・ユー
高田建築事務所
*    今年の母の日は2013・05・12(日)だった。
・    皆様は母上様にどのような形で感謝を表されたでしょうか?
・    母の日の起源についてはウィキペディアによれば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・    アメリカでは南北戦争終結直後の1870年、女性参政権運動家ジュリア・ウォード・ハウが、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」(Mother’s Day Proclamation)を発した。ハウの「母の日」は、南北戦争中にウェストバージニアで、「母の仕事の日」(Mother’s Work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させたアン・ジャービスの活動にヒントを得たものだが、結局普及することはなかった。
・    ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる。
・    アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、1908年5月10日に同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。アンナは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡した。このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案。
・    1914年に「母の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められた。
・    世界では日程は異なるが同じような記念日が存在する。日本はアメリカと同様5月第二日曜日と定められている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・    当初は白いカーネーションだったのはお母さんが故人であったからと聞いた。教会の祭壇上に飾られたのであるが、一般的には故人の場合は自分の胸に白いカーネーションを飾った。
・    反対に母親が健在な人は赤いカーネーションを贈る習慣が現在の習慣となったとやはり聞いた。
・    母の日とカーネーション!

*    私にとっての母の日は?
・    昭和4年生まれであるから今年2月2日で84歳になる。
・    おふくろの病気が発覚して3ヶ月が過ぎた。その間・転倒して大腿骨骨折したりした。骨折は時間とともに回復の方向に向かっているから有難い。しかし、今日まで長いベッド生活を余儀なくされているのは可愛そうである。
・    普段は一緒に住んでいるので朝昼晩には挨拶するもののそんなに長時間膝を折って語ることもない。12日(日)は母の日なので夕方に普段より一層腰を据えて様子を見ながらお話しようと思っていたら、お袋の方から目をつむりながらも流れるように言葉がついてきた。正に私の取っては箴言なる言葉が泉の様に出てきた!・・・・最初は掌に万年筆で書いていたのだがとても多くの言葉が続くので掌では間に合わない。直ぐにメモを取るべく京大カードを取りに行く。書き留めなければ。
・    よいかお父さん。(お袋は私のことをお父さんと呼ぶ)「高ぶりは滅びに先立つ!自分を誇ってはならない。誇るものは主を誇れ!」
・    「普通は偉くなると皆威張りたがる。それが間違いだ。神様に生かされているだけであり自分でできることはほんの少しだから。誇るものは神様を誇れ!」
・    ・・・・・途中で息がつまりそうだった。一気に停まることのない言葉があふれ出てきたからだ。さっきまで闘病で疲れて目をおぼろにしていたのと話口調はか細くあったが語る言葉は全然違った。引き続いて出てきた言葉は私を確りと捕まえた。
・    「神様が下書きを作ってくださったので、その通りに生きれば良い。そうすれば間違いがない。面倒なことは一つもない。ところが皆その下書き(聖書の御言葉)の通りに生きないから問題が出る。」
・    ・・・・・お袋の人生は正に神様の言葉に従順たれと病気前から何時も変わらず言っていたことを想い出した。
・    「間違えたら、静かに耳を澄ませればいい。神様の声が必ず聞こえてくるから。必ず教えて下さる。」
・    「さっきスーちゃん(ひ孫)が痛い!と言ったようだが、神様を呼んだのと同じだ。」
・    「そして、教えて頂いた通りに今度は伝えていかなければならない。」
・    「良い言葉は伝えていかなければならない」
・    「雑ぞうを言ってはダメだ。人のことを悪く言ってはならない。」「嫁と姑の関係で悪口を言ってはならない。」「神様からは何時も恵みがあふれ出ているから。」
・    「自分だけが救われるのではない、人類が救われるのだから。」・・・・・
・    お袋から人類と言う言葉が出るとは!誠にびっくりしてしまった。普段だったら、皆も!という言葉が使われるはずなのに。お袋との人生で後にも前にもこの時だけに使われた。
・    「いつも感謝していることが大事だ・・・人のことを羨ましがるな」
・    「人間はすぐ有頂天になりたがる。」「神様を誇れ。人間は小っちゃいものだ。」
・    「子供に伝えるのはこのことだ。喜んで、今日を感謝して行く。」
・    「人を沸かしてはならない。感謝、感謝・何時も神様がついていて下さる。」
・    「神様は素晴らしい!」「神様は人の声を聴いていて下さる。」
・    「神様を信ずれば皆その通りになる。」
・    「兄弟は何時も仲良く!」
・    次から次に飛び出てくる言葉はお袋から私への箴言であることを確信した次第である。
・    ・・・声がする。すると目を開けて。「耳を澄まして(神様に)聞きましょう。」
・    ・・・私は今年誕生日(12月30日)で今年64歳になる。お袋とは20歳違いだが、お袋から見たらいつまでたっても心配をかけている子供なんだな!としみじみ思った。
・    正に母の日に子供が慰められた。感謝・万謝!

*    Continue:2010・05・20
・    会話・回輪・解話:おばあちゃんの解き証し話:
・    状態は最もお袋が嫌気していた病気:膵臓がんは激痛が襲うと言う。しかし今の所、痛みもそう感じない状況を感謝する。
・    眠る状態(目をつむっている状態)が日に日に多くなってきた。ご飯を食べなければならないのに眠たいために目が開かない。それでも、注意喚起してご飯を食べてもらう。
・    神様はエノクを連れて行かれたのでその姿は見えなくなった。正に隠されることを望んだお袋。
・    神様はおばあちゃんを自然の形でいつも一緒に歩いて下さるよ!と言うと。
・    「神様は自分の心の中に住んで下さっている。だから大丈夫。」と言い放つ顔には喜びがあふれている(様に見えた?)

*    2013・06・23(日)10:34にお袋は息を引き取り天に召された!
・    病気発覚から5カ月にわたる闘病生活・介護生活であった。
・    今年2月2日満84歳を迎えた。昨年暮れからどうも身体の調子が良くなさそうであった。30年来掛かりつけのクリニックに行くが一向に改善されなかった。そこで先生から紹介状を書いて頂いてT総合病院で外科の検査を受けることになったのが2月4日である。検査の結果はその場で即、癌と告知された。同行した親父に内科の先生に診てもらうように指示された。
・    その日は家に帰ってきてからも元気で診断結果を皆に聞かせてくれた。今までお袋の兄姉が生かされた年以上の年齢まで生かされたことを感謝していた。
・    次の日:2月5日にお袋に同行して私達夫婦が内科の方に出向いて診断結果を聞く事とした。
・    前日と同じ診断であった。当然と言えば当然であるが。お袋を診察室から退出させたのちに余命について聞いたら6ヶ月か短ければ3ヶ月と言う診断であった。
・    今後の対処法について相談させて頂いた。年令からと病状から今後の処置は?手術はしない!抗癌剤治療もしない!自宅で療養介護する!であった。
・    殆どの膵臓がんは発見された時はもう手遅れであり現代医学では治療が無いという。難病中の難病とも聞いた。お袋にとっては最もなりたくなかった病気である。と言うのもお袋の姉の旦那がその病気で発見から2週間で亡くなった。しかも、とても苦しんだ姿を見ているから余計にショックなはずである。
・    覚悟はできているのか?動じない母。動じている私!
・    その夕方、私はお袋の前で流れる涙を止めることが出来なかった。しかし、母は、「十分生かされた。とても神様に感謝している。私みたいなものを救ってくださったことを喜ばなければならない。泣くな!なんで泣く必要がある!」と私を戒める。「泣くどころか、喜んでいなければならない。」「感謝・感謝」
・    一日目の診断後のストレートの告知に動じない姿。涙ひとつ見せない母。廊下に出た母に看護婦さんが、心配顔で大丈夫ですか?と質問すると、大丈夫です。とても感謝しています。と言うから看護婦さんもびっくり!
・    私が涙している時に母が口にしたのは聖書の中の詩篇の一節である。「私は羊飼い、あなた方はその羊である。・・・・・・たとえ死の谷を歩むとも災いを恐れません。あなたが共におられるから・・・・・・・・・・」
・    そしてこんなに聖言によって慰められている母に余計に涙している自分がとても小さく見えた。
・    それでも今後のこともあるので入院させてもらって準備を急いだ。
・    2週間後に退院して自宅養生にはげんだ。先生からは施設か?自宅か?と選択を迫られたが最初から家族で決めていたので迷いはなかった。自宅介護である。すると先生から覚悟が必要ですよ!と言葉を添えられた。
・    そして、5カ月弱の介護期間は決して長くはないが、短くもなかったことを素直に告白せざるを得ない。兄弟・親戚・ヘルパーさん・訪問看護・訪問診察等によって静かに息を引き取るまでにとても多くの方のご協力を頂いたからである。

*    お袋は純粋なクリスチャンであった。キリストさまの言葉をそのまま直球に受け止めるのである。その言葉を信じて生きているのである。どんな参考書もいらない。
・    私はと言うと様々な本を読みながら変化球に受け取ってしまう。いわば文化的クリスチャン(勝手にそう呼んでいいなら?)と言って良いかもしれない。純粋クリスチャンと文化的クリスチャンの信仰力落差は大きい。
・    だからドクターからの告知には決して動じなかったのだろう。
・    文化的と付いただけでおどおどとしてしまう。
・    お袋語録は実は聖書のみことばそのものだ。
・    「人の良いところを一つ探せ!悪いところを探せばきりがない!」これは聖言の「人を裁くな!自分も裁かれないためである。裁く自分も同じことをしているのである。人の目の中にあるチリを取る前に、自分の目の中にある丸太梁を取り除けよ。そうすればよく見えるようになる。」のお袋訳である。
・    又、自宅療養中に段々意識も遠のきつつある時に、「いつも喜んでいなさい」と言うと「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことに感謝しなさい」(聖書のみ言)とか細くも口を動かすのである。長い期間眠ったままなのでこちらがびっくりしてしまった。耳は聞こえているのだ!
・    いつも、いつも聖書を片時も離さないお袋。毎週日曜礼拝は欠かさずに出ていたお袋。出る所に出れば出ないでいいところに出なくて済む!(藤尾栄次郎兄大先輩の言葉を実践した人であった)

*    20130625(火)19:00から前夜式:長岡ルーテルキリスト教会にて行われた。
・    葬儀は家族葬にしようと言うことで親戚だけの身内で考えていた。お袋の意向でもあった。
・    しかし会堂は一杯になった。教会の葬儀は良い。家族葬と言っても誰が参加しても良いのである。
・    牧師からはお袋のプロフィールを含めて信仰生活を語ってくださった。
・    私の方からはお袋からの箴言(戒め)を母の日にお袋が語った言葉をお伝えさせて頂いた。

・  前夜式(一般には通夜式)は故人の周りに家族が残るのであるが、生前母の遺言で十字架の前の聖壇前に棺を置いて皆は家に帰ってほしいと言っていたので、それを実行させていただいた。
・  人は裸で生まれたから裸で帰る!(ヨブ記)一つの魂が与えられた。また一つの魂が神のもとに帰る!一対一である!

*    20130626(水)11:30より告別式:同教会にて執り行われた。
・    多くの皆様の御協力の元、無事に告別式を終了することが出来た。
・    斎場での火葬・御斎と皆さまから足を運んでいただいた。
・    お袋から皆さまに感謝している。

~前夜式・告別式で語られたプロフィール~(長岡ルーテルキリスト教会にて)
*   高田俊子姉のプロフィール

・    2029年(昭和4年)2月2日生まれ
・    新潟県長岡市前川町前島に生まれる。
・    父:吉原三六・母:リタさんの八人兄弟(二男六女)の五番目(四女)として誕生
・    結婚:1949年(昭和24年)2月:長岡市曲新町の高田清作の元に嫁ぐ
・    2男1女(長男:清太郎:昭和24年生!次男:勉:昭和28年生!長女:優子:昭和33年生)に恵まれる。
・    旦那:清作さんのご職業:昭和24年から木材業の許可を頂いた。
・    山から木を買って製材業社に依頼して賃挽きしながら材木店を開業
・    自分の製材工場を持ったのは昭和35年:
・    俊子さんはこの様にご主人清作さんの材木自営業を開業時から共に働いてきた。
・    毎朝は5時から工場に出かけた。途中朝ご飯を作りに帰宅して家事もこなす。
・    盆と正月にしか休暇の無かった時代です。
・    昭和36年頃:仕事をしながら聞いたラジオから流れる「世の光」羽鳥明さんの聖書からのメッセージにとても慰められた。
・    教会に行ってみたいと言うのであるがチャンスが無かった。
・    しかし、息子の長男:清太郎氏が高校二年の時に学校で英会話を教えるアメリカ人教師(ヒンズ・ダビデ氏)が宣教師であった。クリスマスに招かれて、礼拝に通うようになった。
・    俊子さんは一緒に教会で御言葉を聞くようになった。
・    信仰心の強い方でイエスキリストさま一直線の方であった。
・    その後連れ合いの旦那をイエス様に導くための祈りはとても強かった。

*    俊子さんには「好きな讃美歌」と「好きな御言葉」が沢山ある。

・    讃美歌

:312番:慈しみふかき
:405番:神共に今して
:239番:さまよう人々
:310番:静けき祈りの
:291番:主に任せよながみを
:332番:主は命を
:285番:主よみ手もて
:270番:信仰こそ旅路の
:326番:光に歩めよ

・    聖書のみことば:

・    私はブドウの木。あなた方はその枝である。私につながっていなさい。そうすれば豊かな実を結ぶ。
・    何時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことに感謝していなさい。
・    貴方の罪は緋の様に赤くても神様の恵みにより雪の様に白くなるのだ。
・    兄弟が和合していることはなんと素晴らしいことだろう。
・    他人の目の中にあるチリを取り除こうとするのではなく、まず貴方の目の中にある梁を取り除けなさい。そうすればよく見えるようになる。

・    家族は昭和48年に息子夫婦が結婚して、現在は同居している。
・    子供3人・孫8人・ひ孫3人+10月誕生予定1人
・    皆おばあちゃんが大好きで尊敬していました。

・    今年2月2日で満84歳になる。
・    どうも調子が良くないと言うことで病院にて診断をして頂いたのが2月4日(月)外科にて本人に「膵臓が散らばっている」と直球報告された。
・    十分生かされてきたから、感謝である。これ以上のことはないと周りには言っていた。
・    2月5日(火)内科から膵臓がんと診断:余命3ヶ月から6ヶ月と言われた。
・    2週間ほど入院後、退院して様々な皆様から支えられ在宅にて療養しておりました。
・    4月5日に転倒して骨折:一時入院するも退院して在宅にて介護する。
・    6月23日(日)礼拝時間10:34に息を引き取られた。病気発見後約5カ月である。

・    生前には皆様の温かい見守り有難うございました。
・    感謝申し上げます。


十字架の下に安置された母の棺!

ノアの洪水の後、声があった。
二度と水で滅ぼすことはしないと。!
その約束として虹を添えられた。

讃美歌をもって始まる告別式

安らかな旅立ち!感謝!万謝!

皆様に愛された母!感謝

告別式のご案内

長岡ルーテルキリスト教会にて行われた前夜式・告別式!(愛称:ゆきん子ペンギン教会)

十字架の下に安置された母の棺:通夜式には一人にしておいてくれと遺言した母!

思い出が沢山詰まった想いでのシーン!

芝牧師からの母へのメッセージは多くの皆様の心に感動を与えてくれた!

讃美歌の詩の中、天に召された母!ありがとうございました。